B.バトチョローンはモンゴル国立大学哲学研究科で博士号を取得しました。その後、モンゴル国立大学で10年間教鞭をとり、インドのジャワハルラール・ネルー大学、モンゴル国立教育大学、オープン・ソサエティ財団、モンゴルリバタリアン基金などで役職を歴任。2006年からフリーの研究者として活動をしています。哲学、自由、思想などをテーマに数冊の本を出版し、約10冊の本の編纂に携わってきました。
J(ジャルガルサイハン): こんにちは。あなたは個人の自由が最も大事だと話し、また書いています。この分野で博士号を取得しました。モンゴルでは個人の自由が社会の自由より上にあるという概念は新しいものです。私たちは、一人は社会のため、社会は一人のためと良く言います。この考え方についてあなたはどのように解釈していますか?この考えは正しいですか?それとも間違っていますか?
バトチョローン: これは昔から西洋諸国にあった考えです。個人主義と集産主義のどちらを尊重するかが重要です。モンゴルの場合、この考え方を個人と政府の関係において話すことができます。基本的に政府が上にあるべきなのか?個人の自由が上なのか?で現れています。歴史的にみるとチンギス・ハーンの時代は政府が上にありました。政府は最も強いものです。ユーラシア的思想とも言われ、政府を尊重します。しかし、1990年代から政府ではなく、個人の自由が先にあるべき、個人が自分の権利を守るために政府を建設するという考えが出てきました。
J: するとこの考え方では私有財産をどのように定義しますか?
バトチョローン: 人間は生まれつき3つの権利を有しています。法律では「あなたにはこのような権利があります」と記されています。しかし、権利とは自然なものです。法律で定義するものではありません。一つ、人として生まれたなら生きる権利があります。その人の生きる権利を誰も奪うことはできません。二つ、人は自由権をもっています。三つ、私有財産を持っています。人間が生まれ持ったこれらの権利を否定していたものは社会主義です。社会主義ではあなたは誰でもありません。あなたより社会が重要だからです。だから一人は社会のためなら、社会は一人のためでなくてはならない。基本的に人間は自分以外の人のことを心配することはあまりありません。人間は利己主義の性質をもっています。しかし、利己主義者であると言って自分と同じく利己主義者の人権を妨害してはいけません。
J: 政府があってもなくても人間は生きる権利、自由の権利、私有財産をもつ権利という3つの権利をもって生まれてきます。では、政府はどんな時に必要になるのでしょうか?
バトチョローン: 人が自由であることは現実の生活の中に現れます。モンゴル政府のように口では個人の自由と謳いながら、裏では自由を持たせないようにすることではありません。これがどこで現れるかというと、個人が自分の所有物を利用できているか?利用できるような自由と機会があるか?です。しかし、これを自由とは私有財産がある人のことで、私みたいに貧乏な人のことではないと極端に、間違った理解をしてはいけません。財産をもっていない人なんていません。最低でもこのバトチョローンという人間にはこの身体があります。私には働く能力があります。これは私の財産です。私はこの財産を利用する権利があるということを言っています。
J: どうして共産主義或いは社会主義が崩壊すべきだったのかというと、あなたが言ったように私有財産を持つ権利を否定していたからです。しかし、今の資本主義社会、市場経済社会において私たちは何を注意して行かなければならないですか?問題点は何だと思いますか?
バトチョローン: 問題点として政府の参入が多いことです。アダム・スミスは自然に動いている市場活動や経済活動に政府が参入することで様々な問題が発生するということを見抜きました。基本的に国有財産というのは経済学的な概念ではないと思います。民営化されていない国有企業には実に多くの調達先があります。国有企業は大きいほど良くありません。例えば、エルデネト鉱業や火力発電所など、大規模な国有企業は必要のない製品を調達し、そこで膨大な金銭横領があります。しかし、民間企業は自分たちに必要なものだけを調達するから金銭横領は発生しないのです。
J: モンゴルでは国有だけではなく政党所有のものもあります。モンゴルは市場経済に移行して20年が経ちましたが、国民の生活水準は上がっていません。現在、モンゴル国民全体の30%が貧困層です。私たちは国民の生活水準をあげるために市場経済を発展させなければなりません。しかし、市場を発展させるものは自由競争であり、政府ではないと考えています。これについてあなたはどう思いますか?
バトチョローン: その通りです。競争しないで入札やライセンスを政党や政治家の力で取ってしまっていることが経済活動に大きな害を与えています。資本主義では真の競争の中で10社のうち8社が倒産するという原理があります。真の競争の中でいらない物はどんどん淘汰されていきます。真の競争が富とお金を作り出します。しかし、政党や政党の傘下にある企業が多くなると、生存能力がない企業が社会に生き残ってしまって社会的富を横領することとなります。それで私みたいな人が貧しさを強いられています。真の競争ではその入札やライセンスを強い企業が取るべきです。今のモンゴルの両政党は生存能力のない企業を養っているように見えます。これは社会的富を崩壊させている最も有害な現象です。
J: この現象についてチェコのある作家が、民主主義という名を持つ者が現れ自分たちを規制し、人々が貧しく暮らす条件を作っていると言っていました。これについてあなたはどう思いますか?
バトチョローン: これは政府が経済活動にあまりにも参入したせいです。ミルトン・フリードマンは「私たちは物を作っている人から取り上げ、何も作っていない人にあげるシステムに入っているのではないか?」と言っています。意味は多くの人から少しずつ集めたものを自分の周りの少数の人にだけ与えるシステムということです。モンゴルでは横領が深く根付いています。
J: では二人でこのようにみてみましょう。もうこの国を私たちは変えることができない。だから国のことではなく自分の子どもの将来を考えて外国に行かせようと考えます。そこで経済的に余裕がある人は子どもを外国に行かすことができました。しかし、この国に残っている人は知識が乏しい、経済的に余裕がない人たちばかりとなります。そうするとこの社会はどうなりますか?この国はどうなりますか?
バトチョローン: 私にとっては国の行く末どころか、自分が何とか生きることでやっとです。国が私に機会を与えなければ、このように自分のことだけを考えるしかありません。自分だけを考えることで、誰にも被害を与えていません。そうでしょう?自分が生きる方法を誰にも被害を与えず、国にも頼らず、誰かをあてにせずに自分で見つけています。これが間違っていると言うなら、それは生きるなと言っていることと同じです。
J: それでは私たち個人のことは忘れてみましょう。モンゴルには私たちを含め300万人がいます。この人たちの運命をあなたはどのようにみますか?このまま放っておきますか?
バトチョローン: 例えば「これはあなたたちのためです」と言って代表者が上にいます。資本主義とは、人は自分自身の成功も失敗も全て自分で負うことを言います。この人たちをどうにかするとばかり言っていると、政府にすべてを任せる古い社会主義体制に戻ってしまうということになります。ですから精神的にこの現実を受け入れ、慣れなければなりません。私の生活がどうあっても、それは私が生きてきた結果だと思います。この社会では各自が自分の人生においてもう少し深く考えないといけません。もう少し慎重にならなければならないということです。
J: そうですね。これが私の聞きたかったことです。誰かがあなたに灯を持ってくることを期待しないことです。自分で頑張ってみることです。物事をありのまま言い評価し、批判することは簡単です。重要なのはあなたがその問題を解決するために参加するのか?しないのか?ということです。参加する場合はどんな知識、情報をもって参加するのか?です。あなたはこれについて自由主義者の観点からどう考えていますか?
バトチョローン: 例えば、私より生活が貧しい人がいるとします。その人に指示したり、指摘することは好ましくないことです。根本的に誰かの生活に対して多くをアドバイスする人は、自分がその人より上だと思っているという証です。私は自分の考えや意見を言い、多くのインタビューを受けました、本も出しました。このほかに私にできることはありません。たまに岩の中で叫んでいるような気がします。
J: そうですね。あなたの本を読んでない人はあなたのことをとても利己主義的な人だと思うかもしれません。しかし、あなたがこの分野でやってきたことを、私のように長年あなたを知っている人には良くわかっています。今日はあなたとこの短い時間でとても重要なことについて話すことができました。特に個人主義というのは成長の礎であるということです。自分自身が成長していないのに他者に指示をしないこと、また政府は市場への参入を少なくするべきだということを教えてくれました。ありがとうございました。
バトチョローン: ありがとうございました。
バトチョローン * ジャルガルサイハン