過去50年間、モンゴル政府および閣僚の職務とそのやり方は何も変わってこなかった。最近は、それが変わりつつあると話す政治家が多くなったが、彼らの認識は正しいとは言えない。昔から政府、閣僚の職に就いた者は全て、自分は無限の権力をもつ王だと思いこみ、国民に対しては農奴のように接し、実際何もかも支配してきた。それは今も変わらない。モンゴルは、社会の基盤となる「所有」形態を変え、経済を市場に委ね、国を発展させるために法律を整備してきた。しかし、現実には社会で様々な施策を実行する際に、政府は自分たちがやり慣れた「社会主義時代の古いやり方」から脱却できていない。

国の長所を把握して発展させるために、政府が最も重要な役割を担っているという認識は、全く根拠のないことであるとハーバード大学の研究者たちによって立証されている。政府自体が経済の各セクターの支援者となり、援助する義務があるとの考えは、長期的に見ると民間企業の競争力を奪うことになる。従って、経済の持続的成長を損なうということだ。

モンゴルでは、消費財の価格上昇を抑えるために、政府は特定の商品(例えば食肉、ガソリンなど)を大量に購入し、長期に渡り貯蔵している。それらを供給不足が起こった時に市場に出し、市場価格を安定させようとしている。

この「支援」にかかる実費(商品の保管費、差額分の損失、販売先の選定および輸送費)は、販売価格よりはるかに高くなる。これは、社会の一部を他の一部の資金で穴埋めするという、政府の上手く行くはずのない取り組みの1つである。この「支援」を全国的にみれば、物的損失の他に、企業間の競争、そこから生まれる企業の目標を打ち消していることになる。さらに、支援の過程で特定のビジネスと政治家の関係をより密接にし、腐敗を助長することになる。そのため、物的だけではなく、人的にも社会に大きな損害を及ぼしている。支援は、支援のニーズの増加を生むだけである。

アナリストたちは、経済の競争力向上のために政府が果たすべき重要な役割は、市場に圧力をかけ、刺激し、試練を与えることであると見ている。

国の競争力をより強化するために、政府はビジネス環境の改善に重きを置くとともに、民間企業による競争を多面的に支援しなければならない。ここで唯一の原則は、人間の安全と自然環境保護に関するルールを具体的に定め、それをすべての人に守らせることである。

例えば、スペインでは建築工事における条件が非常に厳しく、とても明瞭である。そのため、政府の各関係機関はその条件を事業者に忠実に守らせている。建築会社は、その高い条件を満たし、効率的に取り組むために最良な技術を導入し、常に新しいアイディアを出し、競争している。その結果、ヨーロッパでもスペインの建物は断熱性、防音性、壁や窓など細部に至るまでデザイン・クオリティが高いことで知られるようになった。

政府はビジネス分野の競争力を向上させるために、適正な時期に必要な号令をかける義務がある。例えば、70年代、日本政府は「日本の商品は安価だが、品質があまり良くない」というイメージを払拭するために、品質に関わるすべての規格の改善を図り、デミング賞という有名な奨励制度を立ち上げた。これが日本の企業にとって、ビジネスを行う上で重要な号令となった。完璧な品質の証となったこの賞を受賞することは、企業にとってとても名誉なこととなった。これにより、その10年後には「日本イコール高品質」というイメージが定着し、日本の企業は商品を世界中に輸出するようになった。

しかしモンゴルでは、一部の機関が国に支払った税金の規模で企業をランク付けしているだけである(実は納税したかどうかは国が決めているのだが)。モンゴル政府は納税額の多寡で企業を分類し、授賞式の費用を企業自身に出させ、「奨励」する証明書を渡すだけで、他には何も考えていないようだ。

納税額のみで優劣を決めるその賞は、企業の事業活動の特性を考慮に入れていない。もともと特別税が課される酒類、たばこ、ガソリンの販売を行っている企業を全く区別していないことに驚きを隠せない。

企業にとって、主要目標は納税ではない。それより当該分野で競争力をつけ、事業範囲を広げ、企業独自のイノベーションを起こし他社と差別化を図り、市場における優位性を確保し、高い利益を得ることである。経済分野における政府の主な役割は、すべての企業が労働生産性、総資産利益率を高めるために不断の努力を重ね、常に新しいアイディアを生み出すように国内の需要を喚起することである。事業活動を支援し援助するのではなく、逆に圧力をかけ刺激することこそが政府の義務である。

ダムバダルジャー・ジャルガルサイハン