「自由市場というものはない、政府の監視下においてのみ市場がある」

モンゴル国U.フレルスフ首相の発言

モンゴル国首相によるこの発言は、30年前にモンゴルが市場経済へ移行して以来、国民の生活は向上し、様々な自動車、住宅、衣料を手に入れることができるようになり、様々な店舗で様々な商品の選択肢が得られるようになったモンゴル社会に、市場経済について再考させるきっかけとなった。それどころか首相のこの発言に一部の国民は憤りを感じたという。自分たちが食べるもの、着るものまでを政府が規制するのかという声も上がっている。この首相の発言を受けて、公正競争・消費者庁長官B.バト‐エルデネ氏は「小麦とパンの価格を引き上げる根拠はない」とし、企業に対して価格の引き下げを要求した。

国民にとってパンや食肉の価格引き下げは家計の助けになるだろうが、モンゴルの経済を回している民間企業にとっては、今後4年間で経済はどうなるだろうか?政府は新型コロナウイルスを盾に何を企んでいるのかと、人々に警戒心を抱かせている。

私たちはあらゆる商品の需要と供給、価格を政府が決める集中計画経済を切り捨て、自由市場経済へと移行したはずである。では自由市場とは何か?政府の規制は必要なのか?政府の失敗をどのように修正していくべきなのかということを、国民一人ひとりがもう一度考える時が来ている。

見える規制と見えざる規制

人間が人として社会で生きて行くためには衣食住という最低限のニーズを満たす必要がある。そのためには、何を、どのように、誰のために作るかという、この3点を決める必要がある。歴史を見ると、これらは伝統、管理、市場といった3つの方法で決定されてきた。他国の例を挙げると、伝統的には長男が決定するということが多々見られる。一方、管理については、ここでは政府となるが、政府による決定の結果、全国民がいかにして貧しくなるかをモンゴルは20世紀の社会主義時代を通してよく理解している。

18〜19世紀に興った純粋経済(Laisser Faire:なすにまかせよ)では、見えざる手が全てを決定するとイギリスやアメリカ合衆国で見られるようになった。

価格、需要と供給、利益と損失など、市場には「見えざる手」(アダム・スミス、1776年)がある。また政府による規制や法律、命令など管理される「見える手」が存在し、実際にはその両方が経済を動かし、相互に作用してきた。

モンゴルはこの「見えざる手」の魔法を良く知るようになった。首都ウランバートルに住む200万人の市民は、パンや肉が手に入らなくなり、明日の食い扶持に悩むことがなくなった。それらが必要であれば購入することが当たり前となった。実際にどれくらいのパンを製造し、誰に届けなければならないかなど、今では政府の誰も計画していない。しかし、あなたが住んでいる街の通りにある小さいパン屋の店主は、パンを何個仕入れ、いくらで売れば夕方には完売できるかを間違えることなく計算している。商品の供給者と消費者を市場の「見えざる手」がこのように結んでいる。

上述した3点を同時に、効率的に決定するもっとも優れた古典的な方法は、市場原理である。「何を生産するか」は、消費者の財布によって選ばれる。ビジネスは最も多くの人に選ばれる商品を生産し、最大利益を得ることを目的としている。そして「どのように生産するか」は、競争が決める。「誰のために」ということを生産力要素(資源、労働力、資産)である需要と供給が決める。

しかし、「見えざる手」は失敗することがある。なぜならば、人間の性格には、利益を追求する裏側に貪欲というものがあるからだ。市場全体を独り占めしたいという貪欲さは陰謀となり、商品やサービスを高価(Monopoly)に、もしくは費用を下回る安価(Damping)で販売し、ライバルを蹴落とすことで需要と供給の均衡を崩し、市場を破壊する。言い換えれば、商品やサービスを適切な価格で提供しないということである。これを市場の失敗(Market Failure)という。モンゴルの畜産分野がその明確な実例である。過放牧で家畜頭数は7,000万頭以上に増加したが、その40%が山羊である。

市場はしばしば土壌、気候、水などの自然環境汚染をもたらす。あるビジネスの取引において、当事者ではない、直接関係しない第三者が損失を受けることを外部不経済(Negative Externality)という。こういった場合、環境汚染をしている工場などに対して、政府は特定の法律や規定をつくり(見える手)、強制的に規制する。具体的には課税や罰金などのツールで規制する。

逆に正の外部性(Positive Externality)もある。例えば、企業がある研究開発に投資し、市場における他の参加者とその成果を共有することである。その結果、更に新しい知識が市場に生み出される。

このように「見えざる手」の失敗を、政府の透明性のある「見える手」で調整する。これが本来のあるべき政府の規制である。しかし、政府が規制すべきことを規制せず、規制すべきでないことを規制しようとすると、たちまち経済は低迷する。

何を規制するのか?

政府による規制や計画、つまり政府の経済への参入形態は、公正な市場競争を制限するのではなく、奨励するものでなければならない。民主主義政府の主な役割は、国民の生命、財産、自由を保護することである。

民間企業では到底作り上げることができないモノやサービスについては、政府が受け持つ。具体的には防衛、自然環境保護、道路橋梁建設、国民全員の教育、医療サービスなどが挙げられる。

いくら自由競争といっても、そこには規定やルールがある。市場競争が熾烈な時は、各企業は存在感をまたたく間に失う可能性がある。そのため安易に価格を引き上げられない。しかし、もしライバル企業が陰謀を働き、市場を寡占もしくは独占の状態にした時、そこには不完全な競争が生まれる。例えば、モンゴルではAPU社とSpirit Bal Buram社、Gobi社とGoyo社などが企業合併した。これによって、一社による市場の独占がなされることになった。

パンや食肉の価格については、この市場には相対的に多くの小規模事業者が存在するため、陰謀を企て独占される可能性は小さい。このためある企業が販売価格を過剰に高くすれば、その企業だけ販売量が落ち込む。それが価格を制限する仕組みとなっている。代替可能な製品の価格は、変化しても短期的なものである。

しかし、燃料やガソリンを輸入している企業については、陰謀を働く可能性が高い。なぜなら仕入先がロシアのエネルギー企業1社だけだからだ。モンゴルの公正競争・消費者庁は、これら商品やサービスごとの違いに十分注意を払って規制に取り組むべきである。

最後に、政府は何を、どのように、誰のために生産するかを市場の「見えざる手」に任せ、その上で政府の規制は市場の失敗を改善するために機能させるべきである。そうすれば経済は効率的に発展する。

政府(見える手)がいつまでも自由経済を歪める規制を採っていれば、経済は低迷し続け、危機に晒される。これを政府の失敗という。その政府の失敗を「見えざる手」が機能し軌道修正するまで、経済が成長することはない。政府の失敗を修正する手段は、民主主義国家では選挙で政権を交代させることである。そして新しい政府が政策を変更した後にのみ、経済を回復させることができる。

経済発展には、市場の原理と政府の規制の両方が必要である。

ダムバダルジャー・ジャルガルサイハン