J(ジャルガルサイハン): こんにちは。モンゴルは25年間政治、経済、国民生活において大きな移行をしてきました。しかし共産主義時代の概念や思想がまだ多く残っています。共産主義から民主主義への移行期の中でモンゴルはどのように変わったと思いますか?

ダライ・ラマ: 1970年代の文化大革命時代の中国のように伝統文化、宗教、精神的な存在を否定し、排除していた時代がモンゴルにもありました。人間の精神は感情や文化、伝統と関係しています。精神的な存在を政治的な理由で排除することは不可能です。今日の中国では仏教及び他の宗教や信仰が拡大しています。モンゴルと旧ソ連では宗教の影響力を排除するための政策が実施されていました。モンゴルではチョイバルサン氏の時代に多くの知識層や僧侶を排除しました。私は1979年に初めてモンゴルを訪問しました。当時の政治家はみな無宗教を装っていましたが、個別に会ってみると明らかに何らかの信仰をもっていました。しかし、今日のモンゴルは民主主義に移行し、現代教育を取り入れるようになりましたが、発展を物質的な要素ではかり、人々は物や財産に誘惑されるようになっています。しかし、財産では心の平和をもたらすことができないことを時が見せてくれるでしょう。

J: 今日のモンゴルは物質的な富を築く民主主義国になろうとしています。民主的資本主義は人類が実践してきた制度の中で最も優れているということに同感できますか?

ダライ・ラマ:  そうですね。私もそう思います。民主主義は政治的なシステムとして人類の未来そして唯一の道だと思います。人類の70億人がこの地球を共有しています。国とは国民一人一人が作り上げているものであり、ある政党もしくは宗教指導者、国王が作り上げるものではありません。指導者は出現し、そして去っていきます。しかし、国民はいつまでも存在します。私は2011年に政治から完全に離れました。私一人だけではなく、私と共にダライ・ラマが宗教政治の最高権力者となってきた400年の伝統に幕が閉じたと言えるでしょう。なぜならば、私は国民が国の最高権力者を自由選挙で選び、最高権力者は国民に責任を負う民主主義制度が正しいと見たからです。もし国の最高権力者が責任をもって公務をできない場合は、国民が指導者を辞職させる権利を持っていなければなりません。もちろん間違いは起こりますが民主主義は唯一です。それゆえに資本主義は個人が自分を存分に発揮できる、新しいものを創り出す自由をもたらします。しかし、集中計画経済制度は個人にそのような機会を与えず、逆に何かをやろうとする意欲を削いでしまいます。資本主義国では権利を法律で定め実行していく。そして監視する独立した司法制度がなければならないということを先進国の事例をみればわかります。

J: 私はインドの首都デリーを訪れた時、特にダラムサラ市を歩いていて人々には怒りなどなく、幸せそうに歩いていることに気づきました。インドでは貧富の差がとても大きいということを誰もが知っています。それでもインドの人々は笑顔いっぱいに歩いています。しかし、私たちモンゴル人は微笑むことはあまりありません。国や民族を幸福にするものは何ですか?

ダライ・ラマ: 表面上の物質的な発展は内面的な発展と両立していなければなりません。金銭的に裕福になることを優先事項としてはいけません。私たち人間は喜怒哀楽をもつ生き物です。喜びや悲しみなど感情は私たちの内面、つまり精神や思考と関係しています。内面的な価値とは心が平和であることに関係します。しかし、お金や名誉では心の平和をもたらすことはできません。場合によっては、裕福になって名誉を上げるほどに心配事が多くなります。モンゴル人は歴史的にみて強力な軍人だったので心配を少なくすることができると思います。(笑)

J: 人生において思いやりというものはどのくらい重要ですか?なぜこんなことを聞いているかというと、モンゴルでは貧しい暮らしをしている人は前世で行った罪のカルマを背負っているという人々がいます。このような考えをもつ人が多少なりともいるので物乞いに対して辛く当たる人が多くいます。この状況をどうすれば変えることができますか?

ダライ・ラマ: それはとても間違った考え方です。インドにも貧しい人々を見てカルマと言います。このカルマは何をしても変わることがないと無視しています。宗教的にはこれはあり得ない誤解です。ブッダは人間一人ひとりが神で、みな同じということを忘れてはいけないと教えています。お金持ちで裕福な暮らしをしている人でも他者と同じく努力して勤勉であることを怠ってはいけないのです。余裕がある人は、教育や福祉の支援が必要な人々を助けていかなければいけません。貧しい暮らしをしている人をカルマと言ってはいけません。ブッダ自身貧しく病気に苦しんでいる人々を助けていました。ブッダは病気で捨てられた人を自ら看病し、足を洗って、自分の弟子の1人アーナンダに水汲みに行かせたという話があります。重要なのは自ら率先してやってみせることです。

J: 私たちモンゴル人は迷信と宗教を区別して理解する必要があります。何かをする時に良い日、悪い日という風習があります。例えば、この日は床屋に行ってはいけない、この日は旅に出てはいけないなど。ダライ・ラマにとって悪い日はいつですか?

ダライ・ラマ: これについてブッダは明確に教えています。カルマです。全ての行いがあなた自身に因るものです。曜日や昼夜というものは関係ありません。自分が生まれた夜、空には特別な星が出ていたとダライ・ラマ5世が自身の本に書いていました。しかしその本の終わりに彼が生まれた日に何匹かの犬が子犬を産んだと書いてありました。

J: 悪いことをすれば寺院に参拝し、お金を奉げて許しを求めます。このようなことがブッダの教えにありますか?

ダライ・ラマ: ありません。ブッダの教えには全ての創造主というものはいません。あるのは教師のみです。ブッダは私たちに心の平和をどのように得るかについて教えています。創造主ではないのでブッダが私たちの行為を許すようなことはしません。私たち自身が正しい考えと心を持って自らの未来を創ります。人は自分の運命の持ち主ですから、未来は自分がどうあるかに因ります。運命は私たちの手の中にあるとブッダが教えました。

J: モンゴル人の中で謙虚さがなく、他より目立ちたがる、物質的な欲望をもつ人がたくさんいます。しかし、インドの人々や仏教僧はとても謙虚です。謙虚さは重要ですか?

ダライ・ラマ: とても重要な性格の1つです。人には謙虚さが必要です。私は人々に会う時はダライ・ラマとしてではなく、70億人の1人として会うように心かけています。私は彼らを自分の兄弟姉妹と同じようにみています。人々も私をそのようにみてほしいと思っています。私たちはみんな人間として生まれてきました。もし、私は自分をダライ・ラマだから他の人より上だと考えれば、それは私をとても孤独な人にさせるでしょう。

J: 全ての世代の教育についてどう思いますか?あなたは教育を非常に重視していることをあなたが応えた数多くのインタビューを見て感じました。教育は子どものみに必要なものではありません。全世代に必要です。これについてあなたの意見を聞かせて下さい。

ダライ・ラマ: 教育とは知識を深めることだと思います。13世紀に暮らしていたチベットのある教師が言った「人は死ぬまで学ぶ」という言葉があります。

J: 教育を啓蒙と言っても良いですか?人はどうすれば自己啓発ができますか?教育と啓蒙の違いは何ですか?

ダライ・ラマ: 啓蒙をいろんな意味で理解することができます。教育がある人は教育がない人より啓蒙されていると言っても良いでしょう。科学分野で研究者を啓蒙された人と言うならば、仏教では精神や瞑想においてブッダに啓蒙された人と言います。ですから啓蒙とは深い知識と教育を指します。

J: 私は普通の人間として一つ伺いたい。人生の価値は何ですか?

ダライ・ラマ: 人生の価値は幸福だと思います。

J: 幸せに暮らすということですか?

ダライ・ラマ: そうです。人はライバルを蹴落とし、狡猾な方法を使って自分の思い通りに実現したとしても、これは一瞬の幸せ、永遠に続くものではありません。しかし、人に害をもたらすことなく、人を助け、人のために努力することができれば、幸せに生きる方法が見つかります。このように生きることができれば、歳をとり、終えた後に自分が意味ある人生を生きたと思い、言葉で表すことができないくらいの幸福感に包まれます。しかし、富とお金や名誉のためにこの生涯を生きた人には、最後に思い出すものは何もありません。生涯を通して集めたお金と名誉が、その人に安らかな死をもたらすことはありません。

ダライ・ラマ14世 * ジャルガルサイハン