ナワーンツェデン・エンフバト氏は、経済学者であり、MBAを取得しています。ロシア連邦ノヴォシビルスク国立建築土木大学、モンゴル国立大学国際関係学部、金融経済大学、アメリカコロラド工科大学で学びました。モンゴル人民軍や運輸省、インフラ開発省で専門家、国立観光庁で部長を歴任しました。新ウランバートル国際空港では建設プロジェクトマネージャーを務めました。

J(ジャルガルサイハン): こんにちは。新ウランバートル国際空港建設について、この空港建設のアイデアがいつ、どこから出たか、なぜ日本が関わっているかなど詳しく教えてください。

N. エンフバト: これは、私が空港建設に関する仕事を引き受ける前に決まったことです。ボヤントオハー国際空港は、以前から小さくて古いと言われてきました。ターミナルを見てそう言うのだと思います。しかし、空港は本来、飛行機に対して技術的サービスを提供できることが第一の目的です。空港利用者に対して快適な環境を提供するターミナルの問題は、その次にあります。ボヤントオハー国際空港は山のふもとに位置し、傾斜2%になっており、南にボグド山が障壁となっており、滑走路の使用率は73%です。空港の南側に障壁があるため、飛行機は常に北側から着陸し、北側に向かって離陸します。順風となると、つまり風が向きを変えると着陸が困難になります。国際民間航空機関(ICAO)によると、滑走路の使用率は95%が最低ラインです。ボヤントオハー空港はこれを満たしていません。そこで、1993年から滑走路の使用率を上げるための取り組みが始まりました。最終的に空港を移設させない限り、滑走路の使用率を上げることは困難だという結論に至りました。

J: 95%、73%などの数字は、飛行機が着陸出来なかったことを指しているのですか。具体的に何を指しているのですか?

N. エンフバト: 1993年に初めて空港が評価されました。それがこの空港の滑走路の使用率が73%まで下がった場合、民間航空会社の運営の妨げとなるというものでした。

J: 使用率の係数は何に基づいて定められるのですか?

N. エンフバト: 滑走路の使用率とは、飛行機が予定通り着陸できたかどうかによって計ります。フライトがキャンセルされることがあります。そのキャンセルされる割合の問題です。

J:  5%の国際的な水準に対して、モンゴルでは着陸予定の飛行機の27%が着陸できなかったわけですか。

N. エンフバト: そうです。

J: それで新空港を建設することになったのですね。場所として当時はナライフ区、トゥブ県なども挙げられていましたが、どのようにして候補地が決められたかは分かりますか?

N. エンフバト: 当時の資料を見る限り、7カ所を検討していたようです。ウランバートルは山に囲まれているため、それが障壁となり、最終的には3カ所に候補地を絞りました。まず、ウランバートル郊外に位置するフイドローンホダグ地区。ナーダム祭が開催される場所です。次に、ナライフ区の軍用空港が所在する場所です。最後に、トゥブ県の市民がナーダムを開催してきたフシグト谷です。この3つを詳しく調べた結果、フイドローンホダグ地区は障壁があり、今後空港を拡大しにくいとされました。ナライフ区は地下が永久凍土となっているため、検討から外されました。こうしてフシグト谷が選ばれました。場所が決まった後は、プロジェクトを作成し、資金を調達しなければなりません。しかし、当時のモンゴルは経済規模が今に比べて10分の1でした。高額な融資は手に入りません。

J: 90年代ですか?

N. エンフバト: 2000年以降です。資金を探し続け、2000年代に入ります。M.エンフボルド内閣の時、初めて2006年に日本に対してこのプロジェクトを紹介しました。当時は小泉純一郎首相でした。この二人の政治家の合意によって、プロジェクトへの資金、融資の話が少しポジティブに動き始めました。2006年末、2007年始に、日本はこのプロジェクトのフィジビリティスタディをするためのチームをモンゴルに送りました。このチームはモンゴルで5ヶ月間の調査を行い、空港建設の具体的な第一ドラフトを作成して帰国しました。この調査に基づいて、2008年5月10日、国会の承認を得て、円借款を受けました。

J: いくらの融資を、どういう条件で受けたのですか?

N. エンフバト: 288億円です。

J: 当時のドルの為替レートで計算していくらですか?

N. エンフバト: 当時のドルの為替レートで3億ドル未満です。日本のフィジビリティスタディチームとは、計画時にも共同作業を行いました。そこで彼らは次のように言っていました。「空港の滑走路を移動させることに集中して作業をします。他はあなたたち自身がやらなければなりません。そうでないと、これはグリーンフィールドプロジェクト、何もないところに全て作るプロジェクトなので、費用が高くなってしまいます。モンゴルの経済規模を考えると、3億ドルを超える場合、このプロジェクトは実行不可能、返済不可能なプロジェクトとなってしまいます。」 と。それで288億円の借款を受けました。多くの人が不信感を抱いていることでもある、プロジェクトが予算をオーバーし、2度目の借款を受けることになった原因はこれに由来します。つまり、滑走路だけ作り、その他は一時的な施設にしていたのです。飛行機向けのサービスを提供するところまではカバーしたものの、その他のサービス機関は空港利用者の総数に合わせて、後に拡大していくという形となりました。モンゴル側の専門家もこのフィジビリティスタディに参加していますが、円借款の受領が重要だったため、滑走路分だけでもよしと考え動いていました。

J: そして、追加の借款を受けたと。

N. エンフバト: 追加借款は2015年になってからです。2008年に円借款を受けましたが、それは日本が自分たちの調査に基づき、こういう感じで、ここまであなたたちの問題を解決しますというものでした。2008年5月に国会が円借款を承認しましたが、6月に総選挙が行われ、このプロジェクトを扱っていた国会、担当していた内閣が変わりました。さらに、2008年7月に暴動が起き、選挙の結果、与党と野党が連立政権を組むことになりました。ただし、内閣を組織するにも時間がかかり、8月を迎えて組織され始め、新しく仕事を引き受けた担当者が現状を把握するのにまた時間がかかり、10月を迎えました。こうして、開始すべきだったプロジェクトに選挙の影響が出て5ヶ月の遅れが出ました。私は2008年の12月にプロジェクトマネージャーに任命されました。遅れてプロジェクトマネージャーに任命されたため、すでに何人かプロジェクトを進めていて、フシグト谷にオフィスがあると想像していました。しかし、プロジェクトを担当するのが私一人だけで、手元には日本のチームが行ったSAPROF調査と円借款の契約書だけがありました。上の人に会って話そうとすると、他に誰もいないから自分で仕事を始めてくださいと言われました。フシグト谷を見に行くと、起工のサインも見当たりませんでした。冬だったので、見えるのが何もない雪の谷だけでした。円借款の契約についてですが、契約期間40年間です。最初の10年間は返済は猶予され、残り30年間で返済します。年0.2%の利息です。40年間の利息を計算して8%です。こんな円借款なので、日本は大きく3つの条件を付けています。日本の設計会社をコンサルティング会社として採用すること、日本の建設会社を請負業者として採用すること、請負契約の最低限30%を日本の市場から購入することの3つです。私の最初の仕事はコンサルティング会社を選んで、設計をすること。2009年8月にコンサルティング会社が選ばれました。日本の梓設計・オリエンタルコンサルタンツグローバルJVが設計を担当することになりました。日本のチームが行ったSAPROF調査に基づいて、次のステップである入札に向けて具体的な設計へと進みました。すると、SAPROF調査をみる限り、滑走路はあるが、空港には合計8つの建物があり、ターミナルは今より小さく、1階建てで、到着便と出発便の空港乗客者全員が1階で出入りするような計画でした。8つの建物の暖房システムは石油ストーブになっていました。石油ストーブは輸入品であり、使用料金が空港用のローンよりも高くなってしまいます。さらに、輸入品であるため、管理が出来ず、よく分からないという問題があります。じゃあ、どうするか。このまま設計、建築をするのか。その方がとりあえずはローンの額内でおさまっていたのかもしれません。それとも、首都空港として、モンゴルに初めてきた人が利用する空港だということを考えるかという選択をしなければなりませんでした。そこで、大臣など上の人と会って話をしました。前大統領のバトトルガ氏は、当時、道路・運輸・建設・都市計画相でした。

J: 2009年ですね。

N. エンフバト: 2009年です。一番本プロジェクトを理解し、応援してくれたのが当時財務大臣を務めていたバヤルツォグト氏でした。バトトルガ氏とバヤルツォグト氏と会って、設計、計画、空港の収容量を伝えました。上の人はみんな、少なくとも今後拡大可能にしたり、少なくとも今のチンギスハーン空港のように1階が到着便と2階が出発便という構造にするよう言い渡しました。なので、日本の設計会社にそのことを伝え、拡大した設計をしてもらうようにしました。プロジェクトは予算、受け取った円借款をオーバーすることが明白でした。これは上の人、みんなが知っていました。この後、当時大統領府官房長官を務めていたドルリグジャブ氏が日本訪問の際、日本側は「モンゴルは円借款契約の条件となるプロジェクトの内容を変更しました。この場合、契約を取り消します。」という意思を伝えてきました。モンゴルに来た日本のチームは、プロジェクトの設計を承認されないため、設計作業を中止しました。5ヶ月間作業が中断しました。そこで、バトトルガ氏、バヤルツォグト氏、当時国務長官だった現国家大会議員バトエルデネ氏が中心となって、困難な状況の中、日本と交渉を行いました。こちらが持っているもの全部提示し、説明しました。その結果、拡大可能な、今のターミナルは建築してもらい、その他の柵や単純な建物はモンゴル側自分たちで建てることで合意しました。モンゴル側のやるべきことが増えましたが、設計作業は続行されました。両政府の合意内容に基づき作成した設計が終わり、2010年に内閣に対して報告しました。当時はS.バトボルド内閣で、プロジェクトに対してはおおむね好意的でした。政権は変わっても、このプロジェクトにはみんなが賛同していました。中止するなどという政治家はいませんでした。こうして、当時の資料を見れば分かりますが、モンゴルはプロジェクトに対して1220億トゥグルグを出して残りの建物を建設する、日本から受けた借款でこれらの建物を建設するという2つのパッケージに分かれてプロジェクトは進行しました。このようなプロジェクトは、基本的に4つの段階に分かれて行われます。1つ目は設計、2つ目は入札ですが、この段階に対する意識はあまり良くなく、注意不足なところはありますが、これはとても重要なステップです。3つ目に建築、4つ目に保証・承認という段階です。例えば、シャングリラはソフトオープニングをして開業していますが、これは承認段階にあります。私たちは2つ目の入札の段階に入りましたが、ここで問題が生じました。2011年に入札公告をしました。しかし、2011年3月に日本で東日本大震災が起きました。これに伴う復興工事では、日本のほとんど全ての建設業者が発注を受けました。国内で十分に仕事を受けている会社は、国外の仕事に興味を示しません。さらに、本プロジェクトは5億ドルを越えているため、国際的にはゼネコンではなく、スーパーゼネコンを必要とします。日本を代表するスーパーゼネコンは5社あります。

J: 3億ドルに追加して5億ドルを越えたのですか?

N. エンフバト: 最初の288億円に、不足している1220億トゥグルグを追加するという内閣の決定がありましたから。

J: 当時のドルの為替レートでいくらですか?

N. エンフバト: 当時の計算では398億円となっていました。

J: それは全額ですか?

N. エンフバト: はい。 

J: 110億円の追加ということは、当初より35%〜40%増加したわけですね。

N. エンフバト: そうです。こうして入札広告をしました。しかし、これはコンサルティング会社が設計、国内の市場にある商品と材料、輸入する商品と材料の価格等を計算してみたという、あくまで見積もりです。実際の価格は請負業社から提示されます。先程触れた、要注意の入札段階です。

J: そこで入札広告をしたと。

N. エンフバト: そうです。日本の代表的な企業5社のうち1社が入ってきました。6ヶ月間の準備期間を設けましたが、5ヶ月目に突然辞退を伝えてきました。

 

J: なんという会社ですか?

N. エンフバト: 大成建設株式会社です。

J: なぜ辞退を?

N. エンフバト: 辞退の手紙には、建設機械の製造企業がマイナス40℃というモンゴルの天候に動作保証をしてくれないことが原因だと書かれていました。これでダメになり、新しい建設業者を探しました。日本の大手企業5社は相互に競争しませんでした。その次に並ぶ企業は大手の10分の1の企業規模になります。これらの会社の負担が重すぎないように、建物建設と道路建設の2つに分けて次の入札広告を出しました。入札に参加してもらえるよう、在日モンゴル大使館、JICAモンゴルの協力を得て、海外で建設事業を行う日本企業の協会に対して3回の説明会を行いました。2度目の入札には2社が参入しましたが、日本側の判断で、技術的要件を満たさないという理由で不合格となりました。本プロジェクトの全ての過程で日本側がモニタリングします。私たちの全ての決断に対してJICAモンゴルがこれを承認するか否かを決めます。2社からの技術提案をまず私たちが評価し、JICAモンゴルがこれを承認した場合、価格提案をオープンします。この2社に関して、私たちは技術提案を評価し、JICAモンゴルに提出しましたが、技術的要件を満たさないとして承認されませんでした。

J: 日本が日本の2社を?

N. エンフバト: そうです。こうして2回の入札が無効となりました。3回目の入札に当たって、また日本の海外建設企業協会まで話しに行きました。内閣を通して、日本に対して提案も何回かしました。日本が求めた条件に従って、日本企業が作成した設計図をもって入札広告を行っても、日本の企業が参入してきません。そこで問題となったのが、モンゴルが出すお金は信用できないということでした。日本からの借款は信用できるが、モンゴル政府が拠出する分は信用できないため、資金調達に不安が残るプロジェクトには参入できないということでした。JICAモンゴル、モンゴル政府、在モンゴル日本大使館などと協力した結果、日本の大手5社の1社、清水建設の参入が決まりました。運良く、ちょうどその時モンゴル市場に韓国のサムスンC&Tが参入していました。サムスン物産は、モンゴルでKerry Groupからシャングリラホテル、MCSからMCSタワー、モンゴル政府からガショーンソハイト鉄道のプロジェクトをそれぞれ請け負っていました。そしてこれらに留まらず、次のプロジェクトを探していました。私たちのプロジェクトについて情報は持っていました。しかし、韓国の企業は参加できないので、そのビジネスパートナーである三菱商事と共同で、清水建設と競って入札に参加しました。三菱商事株式会社はサムソン物産を下請会社に、千代田化工建設株式会社で構成する共同企業体として参加しました。この入札結果は最初からほぼ決まっていました。なぜなら、サムソン物産は既にモンゴルでいくつかのプロジェクトを実施しているため、多くの下請け企業、建設材料の価格など、市場調査を済ませていました。一方、清水建設はモンゴルでの実績が無かったため、全てのリスクを計算しての価格提案となり、その差が大きかったのです。

J: 日本の価格で入ってきますよね。

N. エンフバト: そうです。こうして、時期が良く、落札が決まりました。

J:  何年ですか?

N. エンフバト: 2013年5月10日です。さっき言ったように選挙で時間をロスし、設計でまた時間をロスしました。入札手続きでは1年8ヶ月間の時間をロスしました。この次に、本プロジェクにとって幸運な出来事がありました。2013年5月に契約締結のための交渉中に、日本の政治は安定し、第2次安倍晋三内閣が誕生しました。安倍首相はアジア諸国歴訪をモンゴルから始めました。2013年3月30日です。その際、安倍首相はアベノミクスという経済政策とODAによる円借款を行う政策を提示してくれました。安倍元首相は不足している資金を全部追加円借款で支払うと提案しました。モンゴル側が負担していた柵や建物全部、その上、私たちがどうしても解決ができずにいた燃料施設の費用などもこれに含む約束をしてくれました。燃料施設については、ハイドラント方式を採用しようと言ってきましたが、JICAモンゴルはこれを承認していませんでしたが、資金調達が約束されたら承認しました。

J: 貯油タンクから地下に埋設されたパイプで燃料を駐機場まで運び、給油車両を通し給油する「ハイドラント方式」ですね。

N. エンフバト: そうです。これはハブとなる国際空港のスタンダードです。追加のローンは2013年に約束されましたが、とりあえずは最初に受け取った288億円の借款を使い続け、これを使い終わる頃に受けることにし、2015年まで延長しました。2013年5月に契約を締結し、同年6月25日を建設開始日としました。契約はFIDIC Pink Bookにしました。Pink Bookの契約条件は、発注者と受注者の両方の責任を厳しく規定します。この契約で1290日後に新空港を完成させ、引き渡すことが決められました。2013年6月25日から1290日を計算すると、2017年1月4日になります。受注者の責務により、運営開始が遅れた場合、空港運営の収入を債務履行が遅れた日数分、請求することができます。他方で、発注者の責務により、運営開始が遅れた場合、請負業者の一切の費用を支払います。本プロジェクトは1万人が関ったプロジェクトです。全員が空港完成を1290日以内にするという一つの目標を目指し、成功しました。

J: 1290日後に空港を完成させ、引き渡しは完了しましたか?

N. エンフバト: 厳密にいうと、6日遅れました。2017年1月10日です。2014年にモンゴル政府はナーダム祭の休みを3日間から5日間に変更することを決めました。これは、プロジェクト関係者にとってはとても困難な数字です。1週間の月曜〜金曜が休みになると9日間も仕事が停止してしまいます。プロジェクトはナーダム祭の休みを3日間で計算していましたから、2014年〜2016年のナーダム祭の休日追加で年2日、計6日間の遅れが出ました。

J: そうして完成したとのことですが、その引き渡しが去年になったと思いますが、それはなぜですか?

N. エンフバト: ここに大きな誤解があります。本プロジェクトは、飛行機が到着し、乗客と荷物を降ろしてまた出発することができるような全ての機械、サービス設備を含めたものです。これは2017年1月10日に完成しました。しかし、その後もプロジェクトが止まっていた理由は、先程話した2015に引き受けた円借款を使ってモンゴル側が建築する建物、インフラ整備をしようとし、これを本プロジェクトに追加したいと依頼しました。三菱商事と千代田化工建設との契約は終了し、建設工事も終わりました。空港の運用に必要な建設は2017年に完了していましたが、これに加えて、モンゴル政府の依頼を受けて、建設工事は続きました。追加で建てるのは空港の運営に必ずしも必要なものではありませんが、これをサポートするものでした。2016年にモンゴルで開催されたアジア欧州会合(ASEM)に当たっての113の地上サービス機器を追加契約で購入しました。地上サービス機器を購入したからには、その保守のための建物をまた建設しました。この建設工事は2018年に完了しました。空港運営のためのものが建てられていったわけです。しかし、2018年の始め頃に円借款の資金が余るという計算がでました。金額は明確に言えませんでしたが、余ることは知っていたので、道路・運輸・建設・都市計画相のガンバト氏に2000万〜3000万ドルが残ることを伝え、これをどうするかを聞きました。実際余ったのは約6000万ドルとなりました。これをどうするかについて内閣に確認したところ、航空会社が土地を確保したにも関わらず、格納庫を建てていないことが取り上げられました。航空会社は資金不足のため、これを建てることが困難となっていました。そこで、2度目の円借款は、その利息が0.1%、40年間の4%となっていたため、余った6000万ドルは返済せず、格納庫を建てるために使うことにしました。しかし、円借款を使うため、契約の条件である、コンサルティング会社、請負会社として日本の会社を採用しなければならないことには従わなければなりません。こうして、そのための作業を続け、2020年4月に格納庫が完成しました。

J: いくつの格納庫を建てましたか?

N. エンフバト: 2つです。ボーイング787が入る格納庫を2つ建てました。

J: 大きいボーイング787が入れるのですね。

N. エンフバト: そうです。 格納庫に関して、なぜ2棟建てたかというと、1棟だけではJICAモンゴルが承認しません。1棟建てると特定の1つの航空会社を支援することになってしまうからだそうです。こうして2つの格納庫の建設が完了し、その間に高速道路も作られました。

J: 高速道路は自分たちのお金で作りましたか?

N. エンフバト: 中国からのソフトローンです。

J: いくらですか?

N. エンフバト: 1億4000万ドルのプロジェクトだったと思います。私たちのプロジェクトとは違います。

J: このプロジェクトはローンの返済が始まっていますよね。

N. エンフバト: 最初のローンは2018年に返済を開始しました。

J: ローンの返済が始まっているのに、空港がまだ運用を開始していないのが気になっていたかと思います。こういう大きなプロジェクトを始める際に、なぜ長いスパンで物事を考えなかったのでしょうか、その途中で入札手続きや政府担当者が変わるなど様々なことに左右されました。本プロジェクト実施中に内閣は何回変わりましたか?

N. エンフバト: 私がこのプロジェクトに関わって、この12月で14年目となります。 2008年12月〜2021年12月です。7つの内閣が交代しました。道路・運輸・建設・都市計画相は11回変わりました。

J: 新空港は運営を開始しました。国内線も国際線も順調に運行しており、国際空港として問題なく運用されています。あなたは今、何をしていますか?

N. エンフバト: 建設工事で忙しかったのですが、設計資料が集積されました。これを提出しようとしましたが、この資料はモンゴル法によって、それぞれモンゴル国立中央公文書館、道路・運輸・建設・都市計画省、モンゴル民間航空庁、新空港に対して提出しなければならないことになっています。40フィートコンテナいっぱいの資料を整理しています。その作業もほぼ終わっていますが。プロジェクトが終了後、最終報告をしますので、報告書を作成中です。今年中にこれを終えて、私の仕事は完了です。

J: 報告は誰に対して提出しますか。モンゴル政府?日本側?

N. エンフバト: モンゴル政府に対してです。 日本側に対しては、四半期PSR(Project Statement Report)報告書を提出します。

J: これを終えて、あなたはどうしますか。

N. エンフバト: プロジェクトチームは解散となり、私の役も解任となります。フリーランスとなります。

 

J: あなたは6億ドルのプロジェクトを成功させました。あなたとは困難な状況でも、成功した際にも、そして東京でも会いました。だから私は必ずこのインタビューをすると決めていました。今日それが実現できとても嬉しいです。こういうメガプロジェクトを実施する際、モンゴルは何に最も注意すべきだと思いますか。

N. エンフバト: 政策の継承が一番重要です。安定した指導者がいて、初めてプロジェクトは成功します。今、一番みんなが疑問に思っていることは、2017年に建設が完成した空港をなぜその時点で運営開始しなかったかということでしょう。しかし、これには空港のオペレーションをどこに任せるかを決められずに3年間経ちました。この3年間の間、3人の大臣が交代しました。

J: なぜオペレーション企業を決定することが出来ず、3年間も経ったのですか?

N. エンフバト: 候補者は挙げられていました。 ボヤントオハー国際空港は、モンゴル民間航空庁が任命したオペレーターによって運営されています。新空港は同じやり方にするか、違う方法にするか、これを決めるのに時間がかかり、最終的にはコンセッション契約を締結して、日本の会社がオペレーターとなりました。これを決めるまでに3年間が経ちました。最後の1年間は新型コロナ感染症の拡大による影響ももちろんありました。

J: 重要なポイントです。何か付け加えることはありますか?

N. エンフバト: 自分のことを言っているわけではないのですが、モンゴルはせっかく育成した人材を使うべきところに使っていません。このプロジェクトに関わった1万人のうち、経営レベルで勤めたエンジニア200人のモンゴル人がいます。全員英語が話せるし、プロジェクトがどう進行するか既に分かっている若者たちです。こういう人材を活用できないのは、もったいないです。

J: 人材育成、その継続ですね。

N. エンフバト: そうです。モンゴルでは製油所建設のプロジェクトが実施されています。それにこの大きなチームを使えば、どれほどの時間と労力を節約できるか。とても残念です。私の指揮の下で働いてくれた部下で海外に出て行く人が絶えません。私自身も海外に出ることを考え始めました。好き好んでというよりかは、13年間のプロジェクトマネージャーの経歴は採用する側にとって好条件です。一部の若者は違う分野で働いています。仕事がないからです。

J: まずは歴史に残る大きなプロジェクト、新空港建設プロジェクトは成功しました。そしてこの教訓は何だったかも教えて頂きました。今日はありがとうございました。

N. エンフバト: この話をする機会を与えて頂き、ありがとうございました。

N. エンフバト * ジャルガルサイハン