2011年3月11日に日本を襲った東日本大震災。この東北地方の沿岸部を中心に発生した地震による巨大な津波が数十の市町村に甚大な被害をもたらし、全体で約1万9千人の人々が死亡または行方不明となった。

宮城県気仙沼市は、人口約7万5千人の漁業の町である。この町は震災で発生した巨大な津波によって大きな被害を受け、約1400名が死者または行方不明者となった。あの日から一年半の歳月が流れた気仙沼を訪れた。海岸から200mのところに、津波で家屋を押し潰しながら流れてきた大型漁船が佇んでいた。地域の人々はこの漁船を震災の記憶を風化させないためにここに残すのか、それとも撤去するのかを未だ決めかねていた。海岸周辺のこの地域では地盤沈下が激しく、海岸沿いの防波堤を整備した後、75cmの土盛りをして地面を平らにならさなければならない。その後、本格的な復興事業に着手するため、今後も莫大な金額が必要になる見込みだという。

気仙沼市東日本大震災調査委員会の村上俊一会長は、津波に飲まれる前と震災後の3月28日の町の写真を見せてくれた。津波に襲われた後の町にはまばらに建物が残っていたが、これらも全て解体され今はもう無いという。気仙沼市観光コンベンション協会の加藤宣夫会長は、押し寄せる津波の力というのは自然の猛威で、これに全てが流されていったのだ、と語った。

8代目の漁師、村上ヒデヤさんと民宿「砂子」を営むユミコさんに震災当時の話を聞いた。ユミコさんは地震発生時は民宿の中にいて、揺れが収まってから外の坂から津波が音を立てながら建物を潰し壊していくのをずっと見ていた。民宿の常連客から海が見えやすいように切ったらどうかと言われていた椿の木のおかげで、民宿まで津波が来なかったそうだ。津波を遮ってくれたこの木は絶対に切らないつもりだという。ヒデヤさんは、一瞬のうちに世界が変わったことが信じられなかった。自分の漁船は津波によって山の向こうまで押し流された。今後の漁についてどうするのかと聞くと、なんとかして船を手に入れ海に戻りたいと語った。

実はこの気仙沼だが、震災後からモンゴルと関わりが深い町である。震災時、株式会社マイナルの戸田等会長や吉崎世紀社長によって、気仙沼にモンゴルのゲルが寄付されたのだ。震災後、多くの市民が体育館に避難した際、モンゴル人留学生のボランティアによって避難所に5つのゲルが建てられた。それを仮設のお風呂と女性や子どもの脱衣所として使用したのだ。気仙沼の人々はもちろんゲルを見たことはなかったが、このゲルのお風呂は非常に喜ばれたそうだ。このゲルは仮設住宅を建てるために撤去されたが、今でも倉庫に保管されているという。また、戸田氏は自身が子どものころ蒙古斑があったといい、蒙古斑協会の日本支部を作り、また世界蒙古斑大会をウランバートルで開きたいと語った。

そしてもう一点、気仙沼とモンゴルには深い関わりがある。この気仙沼には、モンゴル西部のウブス県で採取された重さ1580㎏の世界最大規模の岩塩が祀られた神社があるのだ。岩塩が祀られるこの神社は、気仙沼市の鹿折区にある金山の麓にある。この金山では、明治時代から金の採掘が行われ、最盛期には金の含有量は83%にのぼり、重さ2.25㎏のモンスターゴールドと呼ばれる金の塊が採掘され、世界から注目された歴史がある場所だ。今回のこの岩塩は2005年の愛知万博で展示されたものだが、震災後、災害から町を守ってくれるようにと願いを込め、吉崎氏らによって気仙沼へ寄付されたのだ。吉崎氏は、「岩塩、つまり塩は日本人にとって身を清めるものであり、この神社で3億5000年前から形成された岩塩を祀ることによって、多くの命が失われた被災地をはじめ日本全国を慰めてくれるだろう。そして今後は不幸な災害から町を守ってもらいたい。」と語った。モンゴルから送られたこの岩塩をこの地域だけでなく全世界を震災から守る神とされることは、モンゴル人にとってもありがたいことだ。日本は震災で物質的に大きな損害を受けたが、まだ負けていない、まだ頑張れると日本人は言っていた。

2012年10月28日には、鹿折金山新資料館と金山神社の完成を祝う2つの大きな式が行われ、気仙沼市の市長や市議会議員、衆議院議員などが出席した。モンゴルから送られた岩塩が災害から人々を守り、また復興のために役立つようにと祈りながら、子どもから大人まで歌い踊った。その式に出席した駐日モンゴル全権特命大使であるフレルバートル氏は、「モンゴルの岩塩を奉る神社の存在が、これからの若い世代のモンゴルと日本の交流を深めると期待する。今、太鼓を叩く子どもたちの姿に感動したので、次回はモンゴルの子どもたちを連れてきて、子どもたちの間でモンゴルと日本の交流を実現させたい」と語った。

日本人は常に感謝の気持ちを持ち、働き者で正直な国民である。昔からこの地域の漁師たちが海に出て漁をし、浜甚句の唄を歌いながら帰ってくるのを、村中の人々が喜んで迎え、大きなお祭りをしていたそうだ。これと同じように、我々はモンゴルの大草原からの贈り物の岩塩が、浜甚句の調べのように日本国民の心に届き、響くことを願っている。

ダムバダルジャー・ジャルガルサイハン