B.ザンガド氏は1936年、ホブド県ブヤント郡に生まれました。彼は14歳の時にウランバートルで開催されたホブド県芸術コンテストに初めて参加して以来、今日まで60年間に渡って歌い続け、モンゴル国民から高い評価と尊敬を集めた歌手です。

J(ジャルガルサイハン): 1951年にウランバートルで開催されたホブド県の芸術コンテストに参加していた中学生のザンガドが人々の注目を浴び、それ以来あなたはホブドのザンガドと呼ばれてきました。それから20年後に国家賞を受賞しました。今でもモンゴル人は長きに渡りあなたの歌を歌っています。特に「春が来た」、「永遠の愛」、「クリスマスソング」、「あなたの愛」、「あなたに歌います」、「琴のメロディー」など多くの名曲でモンゴルの音楽界をリードされてきました。あなたが歌手になろうと思ったきっかけは何ですか?

ザンガド: 西モンゴルのホブド県は少数民族の地域です。私が生まれ育ったのは本当に素敵な場所で、その故郷の人々がもつ芸術や文化から大きな影響を受けたと思います。私は幼少時からウリアンハイ民族の叙事詩、トルグード民族の舞踊、チャンドマヌのホーミー(喉歌)など、伝統的な民族芸術を聴きながら育ちました。そのように心の喜びを感じて育ったので芸術に心を奪われ、そして幸いにも神様から歌う才能をもらいました。

J: あなたは何歳の時から歌い始めましたか?

ザンガド: あなたが先ほど言ったように1951年は人民革命30周年の年でした。今から60、70年前の話ですね。初めてウランバートルに来て当時の先人たちをみて彼らを生れながらの歌手だと感じていました。

J: あなたが初めて歌った歌は何ですか?

ザンガド: タンガド、ドルジという2人の歌手がいました。彼らはホブド県の芸術劇場の歌い手でした。1951年に彼らと一緒に「3人の英雄」という歌を歌いました。当時モンゴルの伝統祭であるナーダムは今のヤールマグ地で開催されていました。そこでその2人の歌手と一緒にまだ子どもだった私が「3人の英雄」を歌っていました。

J: あなたの歌った「トゥンガラグ・ブヤント(ブヤントという川の歌)」、「ハル・オス・ノーリーン・シャグショーラグ(ハル・オス湖の歌)」という2つの歌があります。この2曲について何か思い入れはありますか?

ザンガド: 「トゥンガラグ・ブヤント」は私が16歳の時に歌った曲です。当時、中学3年生だった私はロブサンシャラブという先生に師事していました。先生は「君はこの川岸で遊んで育った地元の子どもですから、故郷のことを想いながら歌って下さい。君が歌う時は聴衆ではなく、自分が生まれ育った故郷や万年雪山、ハル・ウス湖、トゥンガラグ・ボヤント川が見えるはずです」と言われました。その時に教えられたことが、今でも私の心に染み付いています。

J: あなたは生れながらのとても綺麗な声の持ち主です。その才能を磨くためにロシアに留学し、チャイコフスキー記念国立モスクワ音楽院を歌手として卒業しました。卒業後、帰国してあなたの芸術に対する考え方、姿勢に何か変化はありましたか?歌手としての自身をどのようにみていましたか?

ザンガド: 西モンゴル出身である私の歌の才能をロシアの先生方がより開花させてくれました。私の指導教授はアンナ・アレクサンドラ・スラブヤヴォという先生で、イタリアの音楽大学を卒業したとても上品で博識な方でした。私はそこで多くを学び身に付けたことで、国民に良い楽曲を提供できたと思います。芸術家にとって最大の目標は良い作品を残すことで、どのくらい多くの歌を歌ったかは重要ではありません。

J: あなたの奥さんはニーナというモンゴルの初のバレーダンサーです。2人の出会いについて話を聞かせて下さい。

ザンガド: 当時、私は高校生で彼女はまだ小さい女の子でした。当時、歌手を志す者はモスクワへ、バレーダンサーを志す者はウズベキスタンのタシュケントへ留学していました。私は1961年に卒業し、モスクワから帰国しました。その後1962年に彼女が卒業し、タシュケントから帰国しました。お互いコンサートなどでよく顔を合わせていました。彼女が踊り、私が歌うといった具合です。コンサートが終わると、家が同じ方面だったからいつも一緒に帰っていました。そうしている中でお互いに親密になっていきました。

J: あなたは卒業してロシアから戻ってきて、まだ20代にして既にスターでした。モンゴルの全ての劇場であなたが歌い、聴衆が拍手していた時、あなたは自分で有名になったという自覚がありましたか?若くして有名になり、期待に応えなくてはいけないとはどうでしたか?

ザンガド: 大勢の国民の前では自分の言動を正しくすること、国民から与えられた名誉をいかに維持していくかが一番難しいものです。賞賛と歓迎の拍手。これは第一に国民が私を認めている現れです。第二に私が新しい楽曲を発表することを期待しているのだと思います。

J: あなたは今までに約400曲を歌い、そのうち100曲がヒットしました。あなたが歌ったその数々の曲の中で60年間も歌われ続けた歌もあります。もう一つ、あなたの歌について話したいと思います。それは「ジャルガーフ・ズルヘン」という歌です。作曲者であるS.ゴンチグソムラーが「才能の持ち主ザンガドに歌ってもらいたく書き下ろしました。ゴンチグソムラーより」と署名した手紙が歴史文書として残っています。J.バドラーが作詞し、S.ゴンチグソムラーが作曲したこの曲について話を聞かせて下さい。

ザンガド: 当時の作詞家や作曲家は素晴らしい才能をもった人たちでした。どの作品も心から作っていたと思います。お金のためではなく、全てが心でした。だからこれ程までに素晴らしい歌を私のために作ってくれたのだと思います。当時、S.ゴンチグソムラーさんは若く、愛についての歌を作りたいという思いがあったそうです。そしてある日、S.ゴンチグソムラーさんとJ.バドラーさんが劇場でコンサートを観ていた時の話です。ゴンチグソムラーさんはバドラーさんに「何か良い詞はないものか。私にはとても良い曲があるが、詞がなくて」と言ったそうです。バドラーさんは私に1つ詞があると言って、翌日にはバドラーさんがその詞をゴンチグソムラーさんに届けたそうです。その詞がゴンチグソムラーさんの曲にぴったり合ったそうです。そして「ジャルガーフ・ズルヘン」が完成したと聞いています。

J: 先ほども言ったようにあなたが歌った400の曲のうち約100曲がヒットしました。この中であなたが一番好きな歌はどんな歌ですか?

ザンガド: たくさん子どもを持つ親はこの子が好きとか、嫌いとかということなく、全員を好きですよね。それと同じです。私は自分が歌った400曲のうち108曲をモンゴル名曲集の中に残しました。歌手として自分の曲を尊敬し大切にしています。私は永遠の人ではありません。自然の法則に従って生きています。だからこのザンガドという歌手がモンゴル国民に何を残せたかという時、私が歌った100余りの歌が残っていることをとても光栄に思います。今日のモンゴルでは、80歳の年長者を敬い、道路を渡る時には車が止まってくれますし、バスに乗る時には手を貸してくれます。こういったことを大変嬉しく思います。そのような国民から尊敬を集めることは、モンゴルの歴代の作曲家、作詞家、同じ音楽家たちのお陰だと思います。

ザンガド * ジャルガルサイハン