2021年はモンゴルの人民革命100周年を迎える年である。私はこの100年の間の発展について、10年ごとに取りまとめたドキュメンタリー映画を制作しているチームから2001年から2011年の経済発展について概観する提案を受けた。

Decade of Growth

この10年間は、1990年に民主化革命で市民が勝利し、70年間モンゴルを支配していた旧ソビエト連邦の崩壊後であった。言い換えれば、モンゴルは政治体制において一党制から多党制の議院内閣制へ、経済的には国有企業のみという構造が民営化し市場経済への移行を始めた。これは体制移行前の10年間の結果であったと同時に、歴史は継続している。

移行期の最初の10年間で、少ないながらも常に収入を得ていた多くの国民は、市場経済の新しい環境下でうまく成長軌道に乗ることができなかった。また、それまでの社会が形成した70年間に創造された国有財産は、不公平な形で民営化された。こういった背景から、2000年の国政選挙では国会の76議席のうち72議席を人民革命党が確保した。

この10年間で人民革命党は8年間、民主党は2年間政権の座に就いていた。N.エンフバヤル氏は4年、M.エンフボルド氏は半年、S.バヤル氏は2年、Su.バトボルド氏は3年、Ts.エルベグドルジ氏(2004〜2006、民主党)は2年とそれぞれ首相を努めた。

1991年から2000年の10年間で、ほとんど成長していなかった経済は2001年から2011年の間に2.2倍に成長し、GDPは84億ドルに達した。一人あたりのGDPは473ドルから3,153ドルになった。2009年にはリーマン・ショックの影響を受け、経済は1.3%縮小したが、2010年には6.3%、2011年には17.2%まで成長し、世界記録を付けることとなった。この成長の基盤となったのは、モンゴルには鉱物資源が豊富にあると世界の市場に知られるようになり、モンゴル政府はビジネスに最適な条件を整備する法律を成立させ、鉱業分野を中心に海外から多くの投資を誘致したことである。

モンゴルのオランダ病

2008年には石炭970万トン、銅精鉱127,000トンを海外に輸出していた。その後の3年間で石炭の輸出量は3,200万トンへ、銅精鉱の輸出量は347,000トンに達した。石炭の輸出量は3.3倍、銅精鉱の輸出量は2.7倍となった。2009年10月には、銅の埋蔵量(3,100万トン)で世界第3位となったオユトルゴイ鉱床の採掘を行う投資契約書が締結された。2011年に鉱業分野はGDPの20%、産業分野の60%、輸出の90%、政府歳入の3分の1を占めるようになった。経済に「オランダ病」の症状が現れ始めた。その原因は、経済が全体的に鉱業生産量と中国経済に左右されるようになったからである。この10年間で、鉱業分野における労働者数は11%、給与は5倍上昇した。外国投資の実に80%が鉱業分野に集中した。

首都ウランバートルには、オフィスビルや住宅マンションが数多く建設され、数千台に及ぶ自動車が輸入された。モンゴルの長い歴史において、初めて多くの国民がマンションに住み、自動車を所有するようになった。しかし、その両方も手にできなかった人々も増え、貧富の差が一層拡大し、大きな社会問題になった。

国の通信分野や金融分野に活気がつき、社会は比較的早いペースで国際標準に達した。私立の大学が数多く開学し、数千にのぼる人々が海外で就労、もしくは留学するようになった。その中でも特に韓国へは各家庭から1人は渡航するという状況となった。また、地方から発展が進むウランバートルへの移住者が年間平均30,000人という数で増えていった。

公共のガバナンス能力は発展の速度について行けず、ほとんどの場合は邪魔なものになった。ウランバートル市の土地、ボグド山周辺の丘陵地、鉱山のライセンスをめぐる腐敗は、政府のあらゆる段階で加速度的に拡大した。モンゴルは腐敗認識指数で2004年に10点満点で3点を獲得していた。その数字は2011年に2.7点へ低下した。政府関係者や市民の間では、チャンスを活かせ、一瞬を掴め、明日を気にするなという意識が強く浸透し始めたと言ってもいいだろう。

モンゴルの出生率は1988年に歴史上最高と言える75,000人の新生児が生まれていた。しかし、1998年には49,000人、2005年には45,000人まで減少を続けた。その後、出生率は増加に転じ、24年後となる2012年には1988年の水準まで達した。この10年間でモンゴルの社会は、あらゆる面で新しい状況に適応するために身体的にも精神的に大きな変化を遂げた。多くの家族は離れて暮らすようになった。子どもたちは両親の片方、もしくは祖父母に育てられるようになった。1990年の民主化後に子どもが減少したため、多くの幼稚園の建物が民営化された。民営化されなかった幼稚園は県や区の役所に変わっていった。

2001-2011

住宅価格は、2000年から2007年の間で平均20%上昇し、2008年には26%上昇した。リーマン・ショックの影響で住宅価格は2009年に少し下がったものの、2011年には再び30%まで上昇したとモンゴル銀行の調査報告書にある。ドルの為替は2001年に1ドルあたり1,102トゥグルグだったのが、2011年には1,373トゥグルグに達し、19.7%上昇した。

モンゴル経済は歴史的に見ても最も早いスピードで成長し、2001年から2011年までの10年間は、簡単に概観するとこのようになる。Carpe momento。

ダムバダルジャー・ジャルガルサイハン